ハイチの会

農業で今日のいのちを守り、教育で明日のハイチを育てる

ハイチの会
ハイチ共和国はどんな国?

~概 要

面積:27,750㎢(北海道の約1/3)
人口:1,051万人(2015年)
首都:ポルトープランス
言語:フランス語、クレオール語
宗教:キリスト教、ブードゥー教等
主要産業:米、コーヒー豆、砂糖
GNI:83億9,700万米ドル.一人当たりGNI 810ドル(2013年世銀)
略史:1804年・フランスから独立
   1915年~1934年・米国による軍事占領
   1957年・デュバリエ政権誕生 
   1991年・アリスティッド政権、クーデターでアリスティッド大統領国外脱出
   1994年・多国籍軍の展開、アリスティッド大統領帰国
   1995年・多国籍軍が国連ハイチ・ミッション(UNMIH)に移行
   1996年・プレヴァル大統領就任
   2001年・アリスティッド大統領就任(2期目)
   2004年・アレクサンドル暫定大統領就任、国連ハイチ安定化ミッション
   2006年・プレヴァル大統領就任(2期目)
   2010年1月12日・ハイチ大地震
   2011年・マーテリー大統領就任

~ハイチの人々と私たち~
教育を受けられない子どもたち」

ハイチと日本と両国の大きな違いは、何よりも国民が受けている教育の差だと言えます。日本は江戸時代の寺子屋に始まり、明治時代には義務教育が徹底され、国民のほとんどが読み書きできるようになりました。また、より高度な教育を受ける機会もあり、考える力や行動力を育てることができます。
そのため日本人は、世界中の人々も自分たちと同じような教育環境にあると錯覚してしまうかもしれません。しかし途上国には、自分の名前さえ書けない人も大勢居ます。
ハイチでは、成人の識字率は62%です(「2010年世界子供白書」より)。国の貧しさや政治の混乱により、子どもたちの約半数は学校に通うことができず、水汲みや幼い弟妹の世話などの家事労働をする子どももや、ストリートチルドレンとして自分の命を守ることに精いっぱいな子どもも居ます。
そもそも地域に学校が無いこともあり、子どもたちは教育とはかけ離れた環境で育っていて、ハイチの就学率は初等教育50%、中等教育19%と極めて低い状況です(「2011年世界子供白書」より)。さらに児童労働率21%、児童婚率30%、ドメスティック・バイオレンス(DV)率29%と、子どもたちはとても過酷な状況に置かれています(「2011年世界子供白書」より)。

そこで、「ハイチの会」は、国の根本的な教育問題を解決することはできなくても、1人でも多くの子どもたちに学ぶ機会を与えたいという想いで活動を始めました。
1986年の設立時から、貧しい子どもたちを対象にハイチの8ヶ所で識字学校を開き、また2007年からは、地域住民からの強い要望を受けて、エンシュ市ボナビ村の山間部にこの地域では初めての教育施設を開設しました。この小学校では、5歳から19歳までの生徒が、年齢ではなく個々の理解度に応じて学んでいて、地域住民による運営を「ハイチの会」が継続支援しています。
教育支援というのは学校を建設することではなく、むしろ建設した後から始まる継続支援が大切です。教師の給料、教科書、制服、給食費を支援し続け、ハイチの人々が自立して学校を運営できるようにする必要があります。生徒数300人ほどの小学校1校舎を建てるには約700万円かかり、継続支援には年間約200万円(生徒1人当たり7千円)が必要ですが、教科書はみんなで共有するなど工夫をしています。そして学校給食は、1日1食すら得られなかった子どもたちにとって、1日の糧となる大切な存在です。
ハイチの人口は約1千万人で、人口比の出生率は、日本が8%であるのに対し27%、10~19歳の割合は日本の9%に対し23%と高い一方、65歳以上の割合は日本の22%に対し3%しかありません(「2012データブックWORLD」より)

生まれる人の数は多いのに、若くして死亡してしまう人の数も多いという悪循環を断ち切るには、国の保健衛生、経済、政治を変える柱となる「教育」が必要です。トイレを学校に併設するだけではなく「なぜトイレが必要なのか」を生徒や親、地域住民が理解することで疫病が防げます。
識字教育で字が読めて書物が読めるようになれば、不利な契約書にサインをしなくなります。農業の授業で知識を深めれば、食糧の生産力を増やすことができます。「教育」により、ハイチの子どもたちが世界の広さを知り、ハイチの貧しさを自覚し、その結果、「自分たちは何をすべきか」を考える力が育つことを、私たちは願っています。ハイチの自立への歩みを見守ってください。

(建設したボンソベー小学校の子どもたち)

「植民地だった国」

 2010年1月に発生したハイチ大地震のニュースを見て初めてハイチ共和国の存在を知った方もいらっしゃることでしょう。ハイチ(Haïti)は先住民アワワク族の言葉で「山々の国(Ayiti)」という意味ですが、現在のハイチ国民はなぜアラワク族ではなく黒人なのでしょうか?
 ハイチがあるイスパニョラ島の名は、1492年にコロンブスがアメリカ大陸を発見した時に「スペインに似ている島」と命名したことに由来します。この「発見」は西洋人側に立った表現で、先住民にとっては「白人による侵略の開始」を意味しました。
当時、イスパニョラ島には先住民アラワク族がいましたが、スペイン人が銀採掘に酷使したため全滅してしまいます。そこでスペイン人は、次の労働力としてアフリカから黒人奴隷を送り込み、サトウキビの栽培を始めました。「発見(侵略)」によって犠牲になったカリブ海域の先住民タイノ族やアラワク族の数は約50万人以上と言われています。

その後17世紀になると、カリブ海ではフランス、イギリス、スペインの海賊が割拠し、1697年にイスパニョラ島の西部はフランス領サン・ドマング(現在のハイチ)になりました。サン・ドマングは黒人奴隷制や、サトウキビ、コーヒーの栽培などにより最も繁栄したフランス植民地となり、「カリブ海の真珠」と呼ばれるようになりましいた。 
しかしその繁栄の犠牲になったアフリカの奴隷たちは、サン・ドマングまで運ばれる2ヵ月の航海の間、不衛生な船底に手足を縛られた状態で入れられ、「物」として扱われていたのです。大西洋海底には、この航海の途中に捨てられたアフリカ人の遺骨が100万体も沈んでいると言われています。
C.L.R.ジェームスが書いた『ブラックジャコバン』には、奴隷船の地獄絵が克明に綴られ、あまりの残酷さに内容を詳しく話すことがためらわれます。
そして植民地に着いてからも、黒人奴隷たちが苛酷な労働を強いられ、逃亡した奴隷への罰として身体を切断したり火炙りなどの残忍な記録が残っています

 
当然のことながら奴隷たちは度々反乱を起こし、1791年、黒人逃亡奴隷ブクマンを頭にした一斉蜂起でハイチ革命が始まりました。
ハイチ革命はフランス、スペイン、イギリスの植民地争いにもなり、泥沼状態の中、ハイチ建国の父であるトゥサン・ルベルチューユが「フランス本土での黒人奴隷解放は、フランス領サン・ドマングでも同じく奴隷解放だ」と宣言してフランス革命に大きな影響を与えることにもなりました。
戦いは指導者デサリーヌに引き継がれ、遂に1804年、ハイチはナポレオン軍を打ち破りフランスからの独立を勝ち取ります。世界史上初の黒人共和国の誕生です。
 しかしフランスは独立と引き換えに、ハイチに1億5千万フランもの賠償金を要求し、ハイチは1922年完済という長期にわたる借金返済で財政破綻しました。

さらに独立後も強国からの干渉は続き、アメリカによる占領、クーデター、そして今も続く政権争いでハイチ国民の生活は疲弊しています。
ハイチの貧困の根源は、「植民地支配」という搾取された歴史にあります。貧困に苦しむ国々は、内戦、民族紛争、独裁という理由もありますが、「植民地だった」という暗い歴史を背負うことが多いのです。
 残念ながら、過去はやり直すことはできません。過去からは学ぶしかないのです。
奴隷船の存在を知らなかった私たちは、今また、ハイチを始めとする途上国で、また世界のどこかで、助けを求めている人々の声が有るのを聞き逃してはいないでしょうか。
(建国の父ルベルチューユの像 2010年大地震で倒壊した大統領官邸前の広場)

「遠い国」
日本人がハイチに渡航する場合、短期間の滞在ならビザは不要です。ハイチ人が日本に渡航する場合は経由国のビザが必要ですが、発行を拒否されることも稀ではなく、手続きも煩雑です。日本からハイチまでは、ニューヨーク経由、またはシカゴからフロリダ経由で1泊してポルトプランス空港に着くのが一般的なルートです。ハイチで唯一の国際空港であるこのポルトプランス空港が、2010年1月のマグニチュード7のハイチ大地震の時には、管制塔や滑走路の破損で使用不能になりました。そのため一時は海外からの緊急支援は隣国ドミニカ共和国から陸路やポルトプランス港への海路で行われました。世界各国が軍隊を動員して国力を誇示するような救援を行い、また緊急救援の非政府組織(NGO)が先を争うように続々とハイチに到着して、目覚しい勢いで新しい空港や港、道路が地震以前よりも立派に建設され、建国以来の開発ラッシュになり救援活動が始まりました。しかし、もともと無いに等しいインフラが崩壊した事よりも、300万人以上の被災者と30万人以上の犠牲者を出し、更に国の将来を担う人材や文化を瞬時に失くしたことは、ハイチにとって大きな痛手でした。多くの政治家が亡くなり、国政も一時止まりました。他の国が支援できることは限られており、再生できない損害の多くは支援では補えないのです。私たちはハイチの人々が自ら望み、自ら行動する国家再建を見守ります
ハイチには郵便配達制度が無く局留めのうえ、紛失も多いので、FedExやDHLなど国際宅急便を使います。ハイチは「クリック?(話を聞きたい?)クラック!(話を聞かせて!)」のやり取りのような、人から人への伝承文化があります。ラジオやテレビを持たない貧しい人々や、識字率62%(2010年ユニセフ)で文字文化の外に居る人々の多くは噂話や教会でのお説教から情報を得ます。新聞や手紙、インターネットを通して世界とつながり、情報を得られるのは限られた人たちなのです。「ハイチの会」の支援先は、貧しい農民たちが暮らす山村でそこではインターネットも出来ません。ある日、支援地から所用で日本国外務省に電話をすると「ハリケーンが直撃するので予定を繰り上げて出国して下さい」と言われました。周囲のハイチ人に「ハリケーンが来る」と伝えても笑うばかりで誰も取り合ってくれません。数日後、橋の無い川をバイクで渡り、セスナに乗り継いで首都に戻り、予定より1日早いニューヨーク行きの便で、既に突風が吹き始めたハイチを後にしました。やるせない思いの帰国でした。その日の夜半から巨大なハリケーンがハイチを襲い、川は氾濫し、村が住民ごと流され、空港はマヒし、数日間ハイチは世界から孤立したことを後で知りました。ハイチが世界から情報を得られないと同時に、世界もハイチの情報に疎いのです。ハイチまでの距離の遠さ、情報の少なさがハイチ支援を疎遠にしていることは否めません。「ハイチの会」は今後も出来るだけ多くの情報を提供して、ハイチを忘れないで頂く努力に励みます。

橋の無い川を渡り支援地に行く。川は幾度となく襲うハリケーンで氾濫する)